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活字はもはや文化の中枢ではない

fratdriveは今ではすっかりテレビ屋ですが、もともとは活字志向が強かったのです。そりゃそうだよね、学生時代はミニコミ作ったりしてたぐらいだから。一時は小説家を目指していたこともあったし。だから、活字のことについてはいろいろと考えてしまうのです。(初版日:2002年09月26日)

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最近、本を読んでいない。

図書館に行く用事があったので、ついでに何か借りようかと思ったが、どうせ読まないと思ってやめた。本屋に行っても、定期購読している雑誌は買うが、それ以外にパラパラ見てみようかという気もあまり起きない。買った雑誌も、ストック資料として買うだけで、あまり読まなくなった。

以前からあまり本を読まないほうだったが、仕事では読んでいた。最近は仕事でもめったに読まない。

メルマガは、読む。仕事やプライベートでやりとりしているメールも読むし、返事も書く。ウェブも見るし、掲示板に書き込みもする。情報伝達手段としての文字には大量にふれているし、使ってもいるが、本は読まない。

本は、きわめて乱暴に言ってしまえば、一部の限られたエラソーな人が、自分の考えなりを一方的に、一律に、大衆に向けて押し付けてくる媒体だ。活字は、ネットよりもテレビよりもラジオよりも古いメディアだ。いまでも、本を出すことをステイタスに感じている人がいて、プロフィールに「著書」としていっぱい書名が並んでいるとスゴイ!とソンケーしてしまう文化が残っている。

しかしほんとにそうなんだろうか?本とはもはや、文化勲章みたいな単なる名誉の肩書き化しつつあるのではないだろうか。あるいは本棚のインテリアと化しているのではないか。本はもはや文化の中心ではなく、文化や社会を変える力はなく、ただ、ピラミッド型の旧来的な価値観を持つ人の、幻想としての文化に成り下がっているのではないか。本は、文化から取り残されてしまっているのではないか。

いわゆる文学なんか、とっくに終わっているんじゃないか。人々の「魂の救い手」なんかにはちっともなってなくて、いや、小説家はそんな大義名分など考えたこともないだろう、ただ、筆1本で成り上がる、金稼ぐ、有名になる、そんな欲にかられてるだけなんじゃないか。そもそも、妄想を筆1本で表現するだけで金を稼ぐなど、たいへん甘ったれた、ナマケモノのすることじゃないのか。「魂込めてるんだ」っていったって、このコラムだって魂込めて書いてるし、公開している。金は一銭も入ってこない。僕はいちおうプロのライターでもあるので、書いて報酬をもらうこともあるのだが、このコラムは金のために書いているんじゃない。

ネットには、一銭も入らないのに、すぐれた表現や貴重な情報などを、公開し続けている人たちがいる。彼らはプロではないが、しかし、もはや、文化の担い手はそういった人々に、移っているのではないか。これまで文化を担ってきたと自負する人たちが、今後も文化を担いたかったら、まず稼ぐことを放棄するべきじゃないか。